いきなりですが、みなさんは読書って何の為にしていますか?
その小説の世界観に浸りたいとか、知識を吸収したいとか、
受験するためとか、暇つぶしとか、なんとなくとか。
まあ、それこそ読書をする人の数だけ理由が有ると思います。
上では理由の一つとして挙げてますが、受験勉強や資格試験勉強などは今回の読書からは外させて頂きます。
今回の本を読む事=読書について私が何故読書をするかというと、
本の中の登場人物には”哲学的ゾンビ”がいないからだと思います。
この”哲学的ゾンビ”についてはこちらを参照頂くとして、
簡単に説明すると(簡単に説明出来るかは疑問ですが)見た目は人間と全く一緒。物理的に観測できる場所(脳みそとか神経とか赤血球とか)も通常の人間と一緒。
唯一違う所は自発的な感情が全く無いという所だけ。
言葉で説明するのがすごく難しいですが、その”哲学的ゾンビ”は普通に電車に乗り、会社で働き、家に帰るとテレビを見て、休日にはみんなでバーベキューをする。けど、外界からの刺激にのみ反応し、自発的感情は一切ない。
じゃ、”哲学的ゾンビ”と普通の人間ってどうやって見分けるの?って話なんですけど、現実的には見分ける事は不可能なんです。なんで不可能かというと、社会生活を送る上で誰かと関わらずに生きる事が出来ない=外界からの刺激が絶えないからです。じゃ、見分けがつかないなら別にその辺にいてもいいんじゃない?って話になるのですが、確かに現実世界では区別のつけようが無いのでいいのですが、私の知り合いや友人等にこの”哲学的ゾンビ”がいると思うと、ちょっと怖い感じがします。
もうちょっと正直に言うと、知人や友人にこれがいたとしたら、何とも言えない恐怖を感じます。
多分みなさんの中にも今までの人生の中で、こんな”哲学的ゾンビ”っぽい人たちに出会った事があるのではと思いますが、本当は違うと思いますが、私も何人か働いている時に出会っています(確かめる方法はありませんが)
そんな人たちに出会うと、本当に怖いです。もうどうしていいか分からなくなります。
この話はすごく長くなりそうなのでまた別の機会に。
そこで本を読むということにつながるわけですよ(話が長い)本を読む=読書、主に小説やノンフィクションですが、この本に出てくる登場人物(植物や動物や感情を与えられた物含む)の中には役割として”哲学的ゾンビ”を与えられていない登場人物以外はすべてその人や物達の感情が分かるからです。
これって、人間の根源的欲求として相手の事を分かりたいし(私だけ?)その人が何を考えているか知りたい。少なくても私はです。本を読むとだいたい登場人物の感情や思慮等に基づくセリフや会話がなされ、それに伴う人物も当然それに伴う感情が本を読む事によって私に伝わってくる。もちろん、おはなしによっては感情をあえて書かずにそれぞれの想いを読者に委ねる手法もありますが、それでも書き手の想いは私に伝わる。
だから私は本を読むんだと思います。
って、締めたかったんですが、これって、とどのつまり、私自身が”哲学的ゾンビ”なのではと思ってしまうのは何でなんでしょう?
・・・多分分からないから本を読むのかな。
私にとって本を読むという事
読了時間:約 3分